よしのやの歴史

吉野建てとは

◆吉野の独特な建築様式
吉野は、平地が少ないため、斜面に谷を背にして家屋を建てることが多くあります。
表から見るとどれも平屋ですが、家の裏は急な崖のため、家屋は下方へ二階、三階となっています。 主に道に面する一階は、商業空間などの公的な機能を備え、地階は家族専用の空間として利用しています。 また、基礎は石垣段上積みとなっている場合が多いです。この建築様式こそが、吉野の山村の独特な景観を生み出しているのです。 (正面から見ると1階建に見えるが、裏手から見ると2階や3階建てに見える) 「懸造(かけづくり)」ともいうようです。

吉野の葛餅(黒蜜・きなこ) 吉野の葛餅(黒蜜・きなこ) 吉野の葛餅(黒蜜・きなこ)

◆阿修羅さんの仏像疎開
江戸時代、吉野で大峰山参拝の宿坊を営み昔から食べ継がれていた本葛粉・葛菓子を手造りし土産品として販売を始めたのが前身です。 第二次世界大戦中の空襲を逃れる為、国宝、阿修羅像、八部衆、十大弟子像十数体を『よしのや』舟知家の蔵でお預かりしていたという歴史があります。 国宝・阿修羅像が戦時中、吉野にある舟知家(よしのや吉野店所在地)の蔵に疎開していました。興福寺の日誌によると、 1945年7月3日当時吉野の町長をしていた舟知家所有の蔵に、乾漆八部衆立像など数十体と共に疎開が行われたそうです吉野駅を降り金奉山寺へ 向かう急傾斜の七曲り坂を戦時中で男手が足りなかったため奈良県刑務所の受刑者たちの手によって運ばれたそうですが、 その七曲り坂を上る度に「ここを阿修羅さんもお通りになられたのか」と、上る足取り一歩一歩が特別に感じます。 阿修羅像がここで、何を想い何を願い、身を潜めていらっしゃったのか吉野山にお越しの際は是非感じてみてください。

        

・仏像疎開 http://www.nara-np.co.jp/